こんにちは。
「周りは仕事で頑張っているのに自分はそこまで一生懸命になれない。
周りの勢いにもついていけないし、こんな自分社会で通用するのかな?」と不安になる方向けのブログを書きました。
実際、そういう価値観は日本全体にあると思いますが、僕としては気にしなくていいと思います。
結論、あなたの考えは甘えではないということですね。
ただ、それだけを言っても気休めだと思われますので、あなたの考えが甘えではない理由を2つ紹介したいと思います。それではどうぞ。
みんなが仕事をするのは認めてもらえないという恐怖が原因
私たち日本人は子供時代から一つの正解を答えるよう教育されてきています。
答えられないと当然評価は下がります。
だから、みんな必死で正解を探そうとしますが本当にそれってあるべき姿でしょうか?
僕たちはなんで教育を受けるかと言ったら、自立した人間になって、幸福になることですよね。
社会に認められるというのは幸福になる条件の一つであって全てではありません。
幸福の条件は他にもお金や健康、文化を享受できることなどたくさんの要素があります。
仕事をする上で人に認められるために仕事をするという考えは思いのほか心に染み付いているので気をつけましょう。
仕事で得ようとしている対価が矛盾しているから
少し抽象的な書き方をしました。
わかりやすい例で解説しようと思います。
例えばなんですが、競馬に行くためにお小遣いを貯めている人がいたとしたらどう思いますか?
なんかちょっと違うなと思いませんか?
ある快楽を求めるために何かを我慢するという考え方は広く知られた考えですが、この論理だと今言った競馬のために貯金する人ももれなく当てはまります。
これは仕事も同様で、仕事はなんのためにやっているのかと聞かれたら「お金を手に入れて余暇を楽しむため」と答える人は多いですが、同じ論理です。
仕事に勤しむ人間を嘲笑うかのような寓話があります。
こちらです。ある宣教師と浜辺で寝ているサモア人の会話です。
宣教師:いったい何をしているのかね!そうやってゴロゴロして、人生をムダにしちゃダメじゃないか。
サモア島人:どうしてだね?じゃあいったいなにをすればいいのかい?
宣教師:そら、ここに椰子の実が山ほどある。それを干して売ったらいい。
サモア島人:いったいぜんたい、なんでそんなことをしなきゃいけないんだ?
宣教師:おかねがたくさん手に入るではないか。そのおかねで干し機を買えば、もっと手早く干し椰子の実つくれるし、そうすればもっとおかねがもうかるのだ。
サモア島人:なるほど。でも、どうしておかねをもうけなきゃいけないんだい?
宣教師:おかねもちになれるではないか。それで土地を買って、木をたくさん植えて、事業を広げればいい。その頃には、きみはもう働かなくてよくなっているのっだ。たくさん人を雇ってやらせればいい。
サモア島人:でも、どうしておかねもちになって、そういうことをひとにやらせなければいけないんだい?
宣教師:ううむ、椰子の実と土地と機械と雇い人ともうけたおかねで、おかねもちになったら、引退できるではないか。そうすれば、もう何もする必要はない。一日中、きみは浜辺で寝ていられるのだ。
引用元:デヴィッド・グレーバー『負債論ー貨幣と暴力の5000年』P.589(高祖岩三郎・佐々木夏子訳、以文社)
もう一度、今の仕事の目的をよく考えてみましょう。
そして、苦しい時には、このサモア島人と宣教師の会話を思い出してください。
周りは頑張って働いているかもしれませんが、本当にその必要はありますか?
自分の人生を賭けてまでやるべき価値のあることでしょうか?
ぜひ考えてみてくださいね。辛い時は周りに流されず、ゆっくり楽に行きましょう^^